智積院を少し調べてみると波乱万丈の歴史があるようです。 真言宗の宗祖である弘法大師空海が高野山は承和2年(835年)に入定。 その後、興教大師が保延6年(1140年)に修行の場を高野山から同じ和歌山県内の根来山に移して、ここを真言宗の根本道場としました。 しかし、巨大な勢力を持つようになった為、豊臣秀吉と対立し、天正13年(1585年)、秀吉の軍勢により根来山内の堂塔のほとんどが消失しました。 その時、智積院の住職であった玄宥僧正は、京都に逃れ、豊臣秀吉が亡くなった慶長3年(1598年)に智積院の再興の第一歩を洛北にしるし、慶長6年(1601年)、徳川家康の外護により、この場所(当時は豊国神社境内)に名実ともに智積院が再興されました。 こんなあらすじを読んだだけでも豊臣秀吉、徳川家康という権力者に翻弄された歴史がある事が伺えます。 智積院に入ったあたりから雨が降り出したので、急ぎ足で北門から智積院会館の駐車場まで行き、そこから東の方に歩いて新日吉神社の東に出ました。 雨が降ってきたので有料の「収蔵庫及び名勝庭園」には入りませんでした。 梅の方は見頃から終盤という感じでした。 | |||||
智積院の大書院
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智積院の講堂とこぶしの花
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こぶしの花をアップで撮影(デジタルズームを使うと少しぼやけて写ります)
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井戸(勝手には使えません)
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さらに進むと梅の花が咲いています
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《延命子育地蔵大菩薩》と梅
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智積院の松と梅の庭
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智積院の金堂(両側に梅)
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玄宥僧正の駒札と像(クリックすると大きな画像で表示されます)
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智積院の明王殿と梅
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金堂の横を歩いて行くと墓地
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金堂の後の墓地から撮影
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東に歩いて高台から金堂を撮影(さらに進むと新日吉神社の裏に出ます)
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2010年03月18日
《智積院》の梅は見頃から終盤(2010.3.18)
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