2010年03月18日

《智積院》の梅は見頃から終盤(2010.3.18)

智積院の西門(七条通の突き当たり)

《智積院(ちしゃくいん)》の北門

 《智積院(ちしゃくいん)》は、七条通を東に行くと、東大路通と三叉路に交差した突き当たりにありますが、前はよく通るのですが、今まで中に入る事はありませんでした。 東大路通に面した西門は門は開いているのに柵が置いてあって入れなかったので、北門から入りました。 南側の智積院会館には駐車場があるので、こちらから入る人が多いようです。 智積院の場所はこの辺です。

 智積院を少し調べてみると波乱万丈の歴史があるようです。 真言宗の宗祖である弘法大師空海が高野山は承和2年(835年)に入定。 その後、興教大師が保延6年(1140年)に修行の場を高野山から同じ和歌山県内の根来山に移して、ここを真言宗の根本道場としました。 しかし、巨大な勢力を持つようになった為、豊臣秀吉と対立し、天正13年(1585年)、秀吉の軍勢により根来山内の堂塔のほとんどが消失しました。 その時、智積院の住職であった玄宥僧正は、京都に逃れ、豊臣秀吉が亡くなった慶長3年(1598年)に智積院の再興の第一歩を洛北にしるし、慶長6年(1601年)、徳川家康の外護により、この場所(当時は豊国神社境内)に名実ともに智積院が再興されました。

 こんなあらすじを読んだだけでも豊臣秀吉、徳川家康という権力者に翻弄された歴史がある事が伺えます。
 智積院に入ったあたりから雨が降り出したので、急ぎ足で北門から智積院会館の駐車場まで行き、そこから東の方に歩いて新日吉神社の東に出ました。 雨が降ってきたので有料の「収蔵庫及び名勝庭園」には入りませんでした。 梅の方は見頃から終盤という感じでした。

智積院の大書院

智積院の講堂とこぶしの花

こぶしの花をアップで撮影(デジタルズームを使うと少しぼやけて写ります)

井戸(勝手には使えません)

さらに進むと梅の花が咲いています

《延命子育地蔵大菩薩》と梅
《延命子育地蔵大菩薩》と梅

智積院の松と梅の庭

智積院の金堂(両側に梅)
智積院の金堂(両側に梅)

玄宥僧正の駒札と像(クリックすると大きな画像で表示されます)

智積院の明王殿と梅
智積院の明王殿と梅

金堂の横を歩いて行くと墓地

金堂の後の墓地から撮影

東に歩いて高台から金堂を撮影(さらに進むと新日吉神社の裏に出ます)

posted by 京都情報 at 23:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | 京都の梅桜情報2010 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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